わたしと父親、わたしと家族 前編
先日、とても素敵な親子のお話を聞いた。
父親が子供の状態をよく見て、よく話を聞いている話だった。
私にはそういった記憶がない。
羨ましくて羨ましくて仕方なかった。
これから書くことは、カウンセリングで判明した、私と家族のつながりや考え方である。
私の父は私の傍にいなかった。
少なくとも私はそう思っている。
傍にいてくれたのは母だったかというと、それもまた違うらしい。
私が母の傍にいたのだという。これについては後半で書く。
傍にいない父を、どうして尊敬できようか。
何をしているかもわからない。
「家のために働いてくれている父親に何て言い草だ」と思われるかもしれないが、父が家にいない間は母から父の愚痴を聞いていたので、父親は悪いものだと刷り込まれていた。
私と父との距離は、どんどん離れて大きな溝となった。
それでも私は、壊れた家族を普通の家族にしたかった。
必死で父に近づいたし、母に近づいた。
父に近づいては幻滅し、母に近づいては母の都合によって近づかれたり突き放されたりした。
思うようにいかない家庭に、私は疲弊していったのだという。
だから私は、こんな年になっても家庭というものがよくわからないのだろう。
家族との心の距離は、目視できるようにも思えた。
食卓での会話の具合やリビングでの団らん、そういったものに顕著に表れる。
子供が安心してその日のことを親に話すことができて、親もそれを突き放すことなく聞くことができれば、どんなにいいだろう。
我が家の場合は、親に心理的余裕がなさすぎたのだろうとカウンセラーさんや主治医に分析された。
そんな私が今、どのように家庭というものを見つめているか。
あの頃の家庭を振り返っているか。
後半に続いて書いていきたいと思う。