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キリンソウ

鬱病と共に生きつつ寛解を目指す。ガジェットとアナログの両方で生活を良くしたい。

子供はもっと褒めるべきだと思う

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私には子供がいません。
しかし、「元」子供としてずっと言いたかったことがあります。

子供はもっと「わかりやすく」褒めるべきだ。

褒められ足りなかった、または褒められるべきポイントで他人と比較されてしまった子供は、大人になってもそれを引きずります。
これはカウンセラーさんにも指摘された件です。
今回は、褒めることの重要性について書いていきます。

私は褒められ慣れていない

何かを自力で作り上げたとしても、そこで受ける褒め言葉を素直に受け止められません。

たとえば私が「毎日ブログ更新してるの?すごいね」と言われたとします。
言った本人は、本当に「すごい」と思って言っていたとしても、私には大方皮肉か努力不足に聞こえます

私がひねくれてるのもあるのですが、小さい頃から褒められることに慣れていないので「ここからもう一踏ん張り」と何故か奮起します。

もっと頑張れば最高のクオリティのものを評価してもらえるので、そちらの方が嬉しいのかもしれません。
しかし、この褒められ慣れていない状態は本人も辛いのです。

「褒められるべき水準」が高すぎる

「これくらいできたら褒められてもいい」というラインが、誰しも心の中にあるはずです。
しかし、私の場合はどうもその水準が高すぎるらしいのです。

それ以下のラインで褒められても、まだ足りないと感じて必死になります。
そして永遠に、そのイタチごっこは終わりません。

原因は親との関わり方

極端な例ですが、がんばって絵を描いた子供が「お母さん、キレイに描けたよ」と絵を母親に見せたとき。
親に「わかったわかった、お姉ちゃんなんだからこれ手伝って」とお手伝いをするよう言われたらどうでしょう。
自分の絵を褒めてもらえず、大きなショックを受けるはずです。

例に似たようなことは経験していて、特にこたえたのが「小説家になりたい」という夢を全否定された時でした。
はっきり「あんたには無理」と言われたので、趣味で執筆することもなくなり、今もブログが落ち着いたら何か書きたいという思いはありますが実現していません。
他者に望まれる水準の小説を書けないからです。書ける自信がないからです。

未だにちらつく親の影

こんなことやってもどうせ認められないし……。
そう考えた時、真っ先に浮かぶんは両親の顔です。

知らず知らずのうちに受けたダメージは、大人になるにつれ顕著になり、子供の生きる「幅」を制限します。
制限された幅は大きなしこりとなって

それを感じたのは、私の妹が自分の息子に対し、余裕を持って接している場面を見た時です。
悪いことをした後でも、子供がちゃんと反省をしたら抱きしめてあげる。
そんな余裕が子供の心を救うのだと思います。少なくとも、私はああやって育てられたかった。

私と両親の関係、特に親から私への関わり方が悪いことは歴代のカウンセラーさんや主治医に指摘されています。
私が抱える自信の無さ、自分に対するネガティブな思考、これらは親との関係に起因しそうだとのことです。

親から受け取るものの大きさで生きやすさは変わる

無条件で受け入れてくれる人間が側にいるかどうか、愛情を素直に受け入れられる状況かどうかで将来は左右されます。

例えば、血縁関係のない他者に自分を求められたとき。
ざっくり言うと、友人や恋人ですね。
その人を信じきれるかどうかは、元々持っていた愛情の受け皿が大きいか小さいかで変わります。

私は小さい人間なので、他者にはできるだけ高価な贈り物をしたり、可能な限り代わりに雑用をやったりしないと落ち着きません。 私が誰かと対等になるとは思えないので、下賤の者はそれらしくしておこうというのが私の考えです。
※私のことに限ってです。

自身と自信がない人生は辛い

確立された自己と、過剰でない自信がある人生に憧れます。
どちらも私が持っていないものです。
自分を肯定できないので、いつまでも何かを掴みかけては逃しています。

オーバー気味でもいい、演技臭くてもいいから、もっと褒められたかった。
まだ若く、様々な面で余裕がない両親には難しかったでしょうが、子供としてはそう思います。
そして、何かの芽を摘むようなことはしてはならないと思います。

私に小説の才能があったと言いたいのではありません。
ただ、母からの全面否定は夢にまで出るほどのダメージです。

うちにはまだ子供はいませんが、将来機会があれば、愛情表現と同時に、子供のクリエイティブな面を認める努力をしたいと痛感しています。